映画・テレビ

2010年1月 7日 (木)

福山雅治クン演じる竜馬像

54_4  新年明けましておめでとうございます。さて新春1月からNHKの大河ドラマ「竜馬伝」が、福山雅治クンの主演で始まりました。このちょっとひ弱な感じの彼に「あの竜馬」が務まるのか心配だったのですが、案の定、第1回目を見た限りでは、こんなに頼りない竜馬で大丈夫かなと先々がさらに心配になりました。

 ところが、関連番組で彼が「自分の演じる新しい竜馬像」について語っているのを聞いて、「そういう見方も面白いかな」と新たな興味がわいてきたのです。彼の話では、「竜馬というとおおらかでたくましくイメージが一般的」だが、「土佐にいるころの竜馬は将来についてしっかりした考えをもっていたのではなく、その後、たくさんの人と接する中で大きく成長していった」、そんな竜馬の姿を演じていきたいと語っていました。

 私の中での竜馬像は、やはり愛読した司馬遼太郎の「竜馬が行く」のイメージが強烈ですが、よくよく考えてみると「新しい竜馬像」のほうが、もしかしたら正しいのかなともいま思うのです。というのは、私が誰よりも竜馬に強い魅力を感じる一番の理由は、「勝海舟の刺客として勝邸に出向いたその晩に、何と殺るべき相手である海舟の弟子になってしまった!」ことにあります。私はこの一事に、竜馬の全てが体現化しているとつねづね思っているので、「人と接して成長していく竜馬」というのは、実にその通りだと合点しました。

 竜馬は周囲の思想の影響を受け「幕府の勝海舟こそ、日本の将来のガン」と刷り込まれ行動を起こすわけです。しかし、そこで竜馬のすごいところは、まちがいなく異常な精神状態であるはずの晩に、「まあ、話を聞け」という海舟の声に、しっかりと耳を傾けることのできる大人物だったということです。しかも海舟の政治思想や世界観をじかに聴くことによって、こともあろうに大の大人が、「目からウロコ」で一気に目を開いてしまうところが何ともすごいのです。

 つまり、彼にはイデオロギーなどないのです。主義主張で凝り固まった石頭ではなく、つねにものごとを「合理的・合目的的」に考えられる柔軟性がすごいのです。
 ですから、自分がじかに接した海舟を、この人物は「ほんもの」であると確信し、いままで自分が接した人物の中で最高!と判断したがゆえに即座に「弟子入り」したに違いないのです。その事実に、彼の素直さや純粋さ、柔軟性と人物のおおらかさなど、もう惚れ惚れする好人物の全てを感じてしまうのです。あわせて、勝海舟という人物の説得力や影響力に、彼の卓抜した見識や人物像にも大いに感動させられてしまいます。

 そんな当時の薩摩にも長州にも、実はドロドロとした権力の欲望と殺気が渦巻いていたのです。にもかかわらず、海舟は滅び行く幕府の中枢にあって一切の私欲なく、その目は幕府を超えて日本の将来に目が向いていました。一方、竜馬は、仲間が権謀術数で政治の中枢に参画することを企んでいるときに、立身出世には一切の興味なく「世界の海援隊になる」と目は世界との貿易に目が向いていました。

 名前こそ薩摩と長州ではないですが、いまや「党利党略」は相も変わらず、政治の世界には欲は化け物のようにでかいが人物力量は小粒なくせに大きな顔をして輩が多すぎます。
 いまの時代に竜馬や勝海舟が生きていたら、どのように私達と係わってくれていることでしょうか。21世紀の坂本竜馬や勝海舟の登場を、絶対にあきらめずに楽しみに待ちたいものです。

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2009年5月25日 (月)

裁判前に「12人の怒れる男」を

39  いよいよ裁判員制度がスタートしました。国民が是非を論ずる経緯のないまま、いつの間にか法務省が音頭をとって、国民皆兵ならぬ国民総裁判員になってしまいました。
 何年も司法試験に合格するために専門的な勉強をしても、なかなか合格しない法曹の世界に、一切の資格も持たない素人がポンとある日裁判に参加し、死刑だの無期だのと他人を裁くのです。これはどう考えてもムリが眼に見えています。

 そもそも裁判員制度とは、何が目的なのかと法務省のホームページを見ると、このように答えています。「専門的な正確さを重視する余り審理や判決が国民にとって理解しにくいものであったり,一部の事件とはいえ,審理に長期間を要する事件があったりして,そのため,刑事裁判は近寄りがたいという印象を与えてきた面もあったと考えられます。また,現在,多くの国では刑事裁判に直接国民が関わる制度が設けられており,国民の司法への理解を深める上で大きな役割を果たしています。」

 要約すると、①判決が国民に理解しにくい ②審理に時間がかかりすぎる ③刑事裁判は近寄りがたい印象 ④外国では直接国民が関わる制度がある の4点です。
 もし、この4点が裁判員制度の導入根拠だとすると、「おいおい」と言わざるを得ません。
 ①の判決が理解しにくいのは、裁判官が国民目線で説明できないだけであり、司法合格の資格条件として彼らの社会性を高める教育をすればいいことです。説明がわかりにくいからといって、受けて側を審理に参加させるのは、電気屋で店員がパソコンをお客様にわかりやすく説明できないから、お客様に店員になってもらうようなものでオカシな話です。
 ②の審理に時間がかかりすぎるのは、国民が入れば早くなるということなので、これも専門家の仕事の仕方に問題があることになります。③の近寄りがたい印象などというのは、どうでもいいことで本質的な問題ではありません。④外国では多くが導入している、についても、ただ外国がそうだから日本もそうするでは、歴史風土を無視した軽々しい迎合判断といわれてもいたしかありません。

 とみていくと、少なくとも法務省のコメントの中には「明確な導入根拠」が何一つありません。この4つの根拠をつなぎ合わせると、「司法に携わる専門家が社会常識に欠けていて時間もダラダラやっているから、国民が参加して分別ある判決を速やかに出して欲しい」とも聞こえてしまいます。

 イギリスを発祥とする12人の陪審員制度は、国王の権利についてが審議の最初で1000年以上もの歴史をもち、アメリカの陪審員制度もそれなりの歴史を持っています。よって、欧米ではもともと市民の自治や権力への抑制など参加型の民主主義形態のひとつとして発達してきたものです。ところが日本では140年前まで、遠山の金さんや暴れん坊将軍の大岡越前守など、お上がお白州で裁きを行ってきたわけです。アメリカのように、いまでもそうですが「銃を持って自らの命を守る」という開拓魂に裏打ちされた自主自立の精神などとは歴史も風土も違うのです。ですからステップも踏まず、歴史的な訓練もないまま、「人を裁く」事を国民に強いるのは明らかにムリがあろうというものです。

 人が人を高いところから裁くことを、自分の人生観や倫理観から受け容れられない人々も大勢いらっしゃるはずです。そもそも国民には「勤労の義務」「納税の義務」「子どもに教育を受けさせる義務」の3大義務が憲法に定められていますが、「人を裁く義務」などはありません。この裁判員制度は「国民の任意」にすべきであって、それを一律に義務化することは憲法違反であると私は考えています。それでなくても赤字財政なのに、福祉制度がなおざりになっている中で、またまた私たちの税金がこの裁判員制度に投入されていきます。おそらく、今後さまざまな弊害や問題が噴出してくることでしょう。

 いま世の中がおかしくなってきいます。政治家は国民に借金をさせてお金を政権維持のために好きなようにバラ撒く、役人は自分の利権と天下り先の確保に躍起になる、ちなみに法務省が、この裁判員制度に求めているメリットは何か。憤ることばかりですが、我々国民は気を取り直して現実的に最善を尽くして生きていかなければなりません。
 さて、ヘンリーフォンダ主演の「12人の怒れる男」(1957年)という名作映画あります。人間心理の奥にある偏見、エゴ、欲など「人が人を裁くとはどういうことなのか」を知る最高の教科書です。裁判員に選ばれた方は、ぜひ、見てから裁判に参加されることをお勧めします。

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2009年3月 2日 (月)

プロとしての地道な努力と魂

 映画はまだしも、TVドラマを見ていると「嘘っぽい演技」が気になることありませんか。
 ドラマ全体が安っぽく、薄っぺらになってしまい興ざめすることを、皆さんも経験していることと思います。
 例えばサスペンスドラマの前半によく出てくる場面ですが、不慮の事故で(実は殺人)で亡くなったご主人がいる霊安室に、奥さんが導かれ刑事が顔の白い布を取ると、間髪をいれず「うわあ!」と大声を出して泣き叫び遺体にすがる情景・・・・・
 よくあるでしょ。実は、私はいつも違和感を感じているのです。愛する人の信じられない死に直面した時、人はあんなにすぐに泣き叫ぶのかと。
 私が思うに、人は思いがけない人生のどん底におかれたとき、その現実が信じられない、それが現実と思いたくない自分が本能的に働いて、まずは声が出ず、これは夢ではないか、現実であるはずがないという気持ちと、目に飛び込んでいる現実との板ばさみで、狼狽や葛藤があるはずです。そして、現実を受け入れるまでの間とか時間とかが瞬時でもあり、それでも信じたくない無意識の行動、すなわち放心とか空ろとか取り乱しとか、尋常でない態度を取るのではないでしょうか。その後に、すべてが現実と悟った時に、一気に搾り出すような慟哭と嗚咽があるのだと思うのです。ですから、ある国の葬式に見られる「泣き女」みたいな振る舞いは、とても直ぐには想像できません。おそらく、「北の国から」の原作者・倉本聡氏の脚本はもちろん撮影スタッフなら、あのような安直な演出をしないはずです。映像は作り手も演者もプロならば、「人間の現実と心」をもっと勉強すべきと思うのです。

 そのような安直なドラマがある一方で、日本の映画作品が2つもアカデミー賞をとりました。そして、いま「おくりびと」の話で持ちきりです。この映画は、主役の本木雅弘君が持ち込んだ企画だというところも評判になっている背景です。しかも、それが15年前から彼が温めていた企画だということを知って、私も俳優としての本木雅弘君を見直しています。なぜ、「君」付けで読んでいるかといえば、彼への親愛の情と有望な青年への期待感からです。

 27歳の青年が15年経って、俳優として映画に何を期待し、俳優として何をしたいのかが結実したところに「おくりびと」があり、アカデミー賞が舞い降りたということでしょう。納棺師に師事してプロの所作と心を学び、「役になりきった」本木君が多くの感動をこれから「おくりびと」の映画を見る多くの観客にも与えてくれるに違いありません。

 さて、もうひとり、私が着目している俳優がいます。
 NHK大河ドラマ「新鮮組」の山南敬助役を好演してブレイクし、その後、「篤姫」の徳川家定、そして日航機墜落を扱った「クライマーズ・ハイ」で事件記者を演じた堺雅人君です。
 彼は、先の大河ドラマ「篤姫」でも、人気を盛り上げたひとりとして見逃すわけにはいきません。文芸春秋11月号で彼と原作者・宮尾登美子さんとの対談から、いかに「家定役づくり」のために並々ならぬ勉強をしたかを知りました。

 例えば、家定が出てくる文献として米国大使ハリスの公式記録、補佐役ヒュースケンの日誌などを調べ、歌舞伎の六法というしぐさを演じる時には市川団十郎の「助六」を観劇し、少しでも家定像をつかむために家定モデルといわれる歌川国芳の浮世絵を調べるなど、その「役づくり」への執着は並ではありません。
 また「クライマーズ・ハイ」では、日本アカデミー賞、キネマ旬報ベスト・テン、ブルーリボン賞、毎日映画コンクールなど日本の権威ある映画賞で、助演男優賞を総なめにしています。この事件記者を演じるときも、「役づくり」のリアリティを得るために30人を越える実際の記者に取材をしたそうです。このような勉強から、彼はほんものの新聞記者の魂を体の中に取り込んでいったのでしょう。

 「プロとはなにか」を考えるとき、この2人の姿勢と魂に、私たちは学ぶべきことがたくさんあります。映画では「いい作品」にあたる、私たちにとっての「いい仕事」―――プロとして私たちも、「役づくり」への地道な努力をもっとしようではありませんか。

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2009年2月 2日 (月)

テレビコマーシャルの制作側と受けて側の感性

30 毎日たくさんのTVコマーシャルが流れていますが、最近、あなたの見たTVのコマーシャルで心に残ったものはありますか。
 わずか数秒の間に「伝えたいこと」を盛り込むのは相当の工夫が必要ですが、その映像が楽しかったり面白かったりすると、皆さんも、また見てみたいと思うに違いありません。
 一方、何度見ても、一体このCMは何を伝えたいのだろうと思うものもあります。つまり、スポンサーの企業名や商品名がなんだかわからなかったり、映像目的すらわからないものもあり、これでよくスポンサーが何千万円もの制作&放映料を払うものだと首を傾げたくなる場合もあります。

 私もTVCMを発注する企業側の責任者として、シナリオ制作から撮影までに関わったことがあります。TV局の制作現場では、その責任者たちはプロ意識からか「独善」も強いので、「いい作品」をつくるには、お見合いと同じで発注側と制作側の感性部分の相性が大変に重要となります。つまり、CMの放映目的は、その企業に好感を持ってもらえる、その商品を購入してもらえる、など企業にとっては明確なので、この目的に対してどれだけ表現での折り合いをつけ達成度を満たせられるかに勝負どころがあるのです。言い換えれば、「いい作品」とは、「表現による制作目的の、到達度の高い作品」ということです。

 さて、その放映目的から見てみると、これは明らかに企業にとってマイナスでは、と思われる作品もあります。少し前になりますが、ある有名な銀行が、こともあろうに不朽の名作「ローマの休日」の数シーンを使い、世界の妖精・オードリーヘップバーンのせりふを入れ替え、彼女に銀行の宣伝をさせたのです。

 映画「ローマの休日」は、女性はもちろん世界中の多くの人々に「永遠の夢物語」として心に残る、いわば映画芸術の名作といえましょう。月刊誌「文芸春秋」の近刊でも「世界のNO.1美女」に選ばれたのがオードリーで、おそらく、この「ローマの休日」の清純なアン王女役を誰もが心に浮かべた結果と思います。しかし、その銀行のTVコマーシャルは、そのオードリーの人気を「とんでもない扱い間違え」をした最低の作品だったといえましょう。

 つまり、映像の著作権が50年で切れたのに目をつけたのでしょうが、故人となったオードリーもグレゴリーも名監督ウィリアム・ワイラーも、そして不朽の名作「ローマの休日」も、結論から言うと、もはや決して触れてはいけない「神聖な領域に入った世界」と見るべきでしょう。これを無視して、「永遠の情景」を商業ベースに使った制作者とスポンサーの無神経さは、ただ呆れるばかりといわれてもいたし方ありません。彼らがいかに、この映画「ローマの休日」のこともオードリーのことも愛していないことがよくわかります。少なくとも芸術や映画を大切にする受けて側の人々は、間違っても「このような銀行にお金を預けたくない」と思う方は多いのではないでしょうか。まさに、制作者とスポンサーの感性の鈍さの問題です。

 一方、反対に、ついホロリとしてしまうCMがあります。東京ガス(全国放映でないのは残念です)の「ご飯が炊けました編」と「山菜の味編」です。
 「ご飯が炊けました編」は、新婚まもない若い夫婦の、どこにでもある生活のワンシーンがモチーフとなっています。夫が会社で仕事をしている映像、同時進行で、あれこれ夕食の買い物をしている新妻の映像。その後、妻は、つくっていたシチューがほぼ完成したので夫に電話をする。妻が「ご飯は?」というと、残業中の夫は遠慮がちに、「外で食べる」と返事する。妻は鍋をゆっくりかき回しながら夫に気遣い「まだ、つくっていないから」と答える。が、その電話に、ガス炊飯器の自動音声「ごはんが炊けました」が流れる。その後、夜の街を走る電車の遠景が映り、「ただいま」と夫が帰宅する。それを彼女がソファの上で、ひざ小僧を抱えながら「おかえり」と迎える。画面はフェイドアウトして「ちょっと明るく、ちょっといい未来」とナレーションが流れる。

 時間経過を上手に見せながら、若い夫婦の愛情や相手を思いやる気持ちを細かい描写で心憎いほど見事に表現しています。いまこのように書きながらもシーンを思い出してウルウルしてきてしまうほど、作品への思い入れが短い映像の中に閉じ込め込められています。プルサーマル計画で原子力発電所を推進しようとしているオール電化の東京電力と、「ガスッパッチョ」などのコミカルCMも持つオールガス化の東京ガスとは熾烈なセールス合戦をしていますが、はたして勝敗はどうなるのでしょうか。

 さて、同じく東京ガスの「山菜の味編」ですが、これも、どこにでもある誰にでもある普通の生活や人生のワンシーンです。その普通の中に感動がひっそりと隠れていることを、先の「ご飯が炊けました編」も、この「山菜の味編」も見事に映し出しています。どうも、こういう「ホロリ」に私は弱いようです。「山菜の味編」は映像の最後に、「家族をつなぐ料理のそばに 東京ガス」とナレーションが入ります。これは、いま放映中なので、ぜひご自分の目でご覧になってみてください。

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