心と体

2011年4月25日 (月)

ガキ大将の経験のない者は首相になるべからず

62_2  もう、何十年も経って時効でしょうからお話します。
 私が育ったのは、戦後間もない頃の東京千代田区麹町。家業は化粧品屋。私の遊びのテリトリーは、東は半蔵門、西は四谷3丁目、南は赤坂見附の弁慶橋、北は市谷あたりまで。そして、もっとも遊んだのが上智大学やイグナチオ教会の周辺。と言っても、当時の校内は、米軍が持ち込んだカマボコ型の住居がいくつかあり、まだまだ建築現場や空き地の多かった場所でした。

 そのような校内に、木々が生い茂り、ひときわ静かな小路をもつ庭があったのです。それが神父さんの住んでいる石造りの3階建ての前庭。その庭は、神父さんが腕を後ろに組んで思索したり、読書しながら散歩したりする、なんとも神聖な雰囲気の庭でした。(形は狭く変わりましたが、いまも庭はあるようです)

 実は、その庭には、実がいっぱいなる大きな甘柿の木や、果物屋でも高値で売れるような立派な実のなる大きな琵琶の木などがあって、私たち子どもにとっては最高に誘惑の庭だったのです。しかし、昼間は神父さんがいて、なかなか思うようにならなりません。そこで、悪ガキのリーダーだった私は、昼間、4、5人の仲間とY字の枝を竹竿に差込み準備OK、庭の草むらに隠し、夜8時、銭湯に行くことを口実に、その庭に集結したのでした。

 リアルタイムで実況すると、まずは、庭の入り口に見張りを立て、誰かが庭に来れば直ぐに伝令。我々は柿の木から見える神父さんの部屋の明かりを凝視、「そのとき」を待つ。音と気配を察知されれば作戦は失敗、その時がきたとばかり、主犯の私は息を殺しながら、スローで柿の実の枝に二股を差込む。そして静かにねじると、最小限度の柿の実と枝と葉が一緒になって落ちてくる。これを他のメンバーが下に落とさないようにキャッチし、八百屋からこっそり調達してきた浅い木箱に実だけをすばやく入れる。しかし、3階の日本人の神父さんに気づかれ(実は外人の神父さんは、皆優しかった・・・昼間、琵琶泥棒して口中クワンクワンにしながら食べているのを見つかったときも、ニコニコしていてくれた)、窓から「何しているんだ!」と大声で怒鳴られてしまう。しかし、ここで逃げては、ガキ大将の名が廃る。窓際で怒鳴っている限りは、絶対に捕まることはない。いよいよ、その神父さんの姿が見えなくなり、階段を駆け下りる気配を感じたときに、一斉に木箱をもって逃げる。

 もちろん、その後皆で収穫を祝い、銭湯はアリバイづくり程度で帰ったのはもちろんです。ところが、その後がまずかった。後日、仲間の一人が親に口を滑らせ、それが、どういうわけか私の鬼の父親の耳に入り、大変なことになったのです。共犯の一軒一軒に、オヤジと一緒にお詫び行脚で、そのたびに「タカオが先導して、このような・・・」で、謝ることと抱き合わせでオヤジにぶん殴られ、鼻血は出るは、顔は腫れるはで大変でした。オヤジは面子がたったかもしれないが、私は学校でも「どうしたの?」と聞かれ、話すわけにもいかず困った数日を覚えています。

 話は長くなりましたが、小学生のガキ大将ですら、目的のためにはこのくらいの才覚と、失敗したときのリスクと責任をもちあわせているのです。はたして菅さんはどのような子ども時代をすごしたのでしょうか。もし、ガキ大将の経験があれば、「いま、なにをしたらよいか」「自分の役割は何か」「自分の責任とは何か」を瞬時に判断して行動できるはずです。3月11日から今日まで,菅さんが話せば話すほど言葉がむなしく響き、一切のアウトプットのない金のかかった行動を見ていると、この男には目的をもって役割を決め、人を動かし、成果を出す「柿泥棒」は、絶対にできないなあと思わざるを得ません。ましてやリスクも責任も、とることなど到底ムリです。

 同じことが東電のトップたちにも言えるでしょう。いま、福島では、何の罪もない住人の方々が、避難所で将来のわからない毎日を送っています。原発現場では、まともな食べ物もなく極限の劣悪環境で、必至の復旧作業をされている方々がいます。こういう人こそ、東電の宝であり、日本の宝なのです。住民や彼らが命を削っている現場に対し、東電のトップは、アウトプットのある行動を一切起していません。

 平時には、ダレがなっても変わらないトップリーダーの職が、いま非常時において、その鼎の軽重が問われています。一言で言うならば、ガキ大将の経験のない者は、基幹組織のトップになってはいけません。組織が滅び、国が滅びます。

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2009年4月 6日 (月)

準優勝・花巻東高校の強さの秘密

35_6  選抜高校野球の決勝戦は、大会前にはともに優勝候補からほど遠かった長崎・静峰高校と岩手・花巻東高校の行き詰る熱戦となり、1:0で静峰高校の優勝となりました。一時は、大会史上はじめて優勝旗が白河を越えるかと期待されましたが、初出場の花巻東高校の優勝はなりませんでした。しかしながら、その見事な健闘が母校のみならず岩手の人々の誉れとなったのは間違いありません。

 その花巻東高校ですが、県立高校でなく私立だそうです。甲子園で決勝戦まで行くチームですから、さぞ選手は全国から集まっているのかと思いきや、全員が岩手県内の高校の卒業生であることをカーラジオで聞いて驚きました。では、どうしてこんなに強いチームに育ったのか、この学校のエピソードも紹介していました。

 実はこの学校、創立は商業学校だったのですが、昭和57年に合併で花巻東高校になりました。しかしながら、最初は余り風紀のよい学校ではなかったのだそうです。それが、あることから変わっていったのだそうです。
 そのあることとは、毎朝、生徒の登校時に先生たちが校門にたち、必ず生徒に「おはよう」の声かけをし始めたことがきっかけでした。この「おはよう」の声かけから数十年、いまこの学校の周囲に住む人々は、生徒からさわやかで大きな「こんにちは」とか「お元気ですか」とかいう声をかけられているとのことです。

 先生たちの「おはよう」には、教育者の深いところの熱意と思いがヒシヒシと伝わってきます。そして、いまその「おはよう」が生徒の中に浸み込んで、今度は生徒の「おはよう」の声になって先輩から後輩へと受け継がれている姿が浮かびます。全国から選ばれた多くの高校が、勝利すると高らかに歌う校歌には、必ず「伝統」という歌詞が登場しますが、学校の中で先輩から後輩へ受け継いでいく大切なものは何かを、この花巻東高校は改めて私たちに教えてくれているように思えます。

 さて、企業の中で経営者もビジネスマンも、「思い」をどのように社員や仲間に伝えていくのか、どのように「いま」を変えていきたいのか、忍耐も我慢も必要で簡単なことではないでしょうが、私たちは、花巻東高校の先生と生徒から大きなヒントをもらいました。

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2009年3月 9日 (月)

宇宙飛行士の最終試験

33  3月8日のTV「NHKスペシャル・宇宙飛行士の最終試験」という番組で、日本で初めて飛行士2名が選ばれる過程が放映されました。
 その選考試験はまるで夏の甲子園のようで、全国から963名が応募、書類選考で「英語力」が審査され、その後1次選考,2次選考,3次選考と8ヶ月間をかけて最後の10名までに絞り込まれ、1週間の最終選考で3名以内が決定されます。その選考場所に初めてカメラが入り1週間、密着取材が行われました。

 銀行の金庫のような厚い扉が閉められ一切の外出禁止、宇宙船を想定したような環境で1週間、すべてをテレビモニターが映し出すプライベートのない生活をします。その間、グループ分けされたチームに課題が与えられ、その映像が別の場所にいる審査員たちにチェックされ評価の対象となります。

 まずチームに与えられた課題は、「人を癒すロボットをつくれ」。
 限られた時間の中で、どのようにロボット完成までこぎつけられるか、「宇宙飛行士の資質」である「リーダーシップ」が試されます。スタートしてまもなく、ひとりだけ胸と背に被るゼッケン「H」を、「I」につけまちがえたメンバーがいました。これも審査員からは、減点対象。宇宙では、小さなミスが命取りになることも少なくないからです。

 その間、「特技を生かしてどのように皆を楽しくさせられるか」で「人を和ませる力」を評価されます。折り紙を配って「時間内に折鶴をどれだけ折れるか」で、細かい同じ作業の繰り返しからの成果と合わせ「ストレス耐性」を評価されます。その後突然、出来上がったロボットに審査員から「もっとおもしろいものに」と注文がつけられて、ほとんどないような短い時間で「どれだけ要請に応えられるか」で「緊急対応能力」を評価されます。

 実は、これらの能力はすべて、宇宙飛行士の資質として実際に必要とされるものなのです。つまり、今回の採用は、スペースシャトルのリーダーとなれる人物の採用であり「リーダーシップ」が、宇宙の中でストレスをためた人々を癒す必要性から「和ませられる」資質が、細かい作業を根気よくやり遂げる必要から「耐性」が、そして現実にあった教訓で、スペースシャトルが宇宙で故障し3名が地球に戻れない危機に直面した時、存在しない機器をすばらしいチームワークで冷静に作成し奇跡のように地球に生還した事実から「緊急対応能力」が求められているのです。

 そして最後の資質を今度はNASAに直接行って、宇宙に行った土井さんを含めた実際の宇宙飛行経験者7名によって面談テストをされます。その資質の最後は、「宇宙飛行士としての覚悟」です。その面談で、審査員たちは希望者の人物の本質を見抜くのです。つまり「あなたはダレなの?」。

 このようにして10名の最終候補者の中から、厳しい審査に合格して見事2名の新宇宙飛行士が選ばれました。ひとりは、全日空で副操縦士として国内線や国際線のパイロットをしている大西卓哉さん33歳。もうひとりは、航空自衛隊で戦闘機などのテストパイロットとして経験を積んできた油井 亀美也(ゆい・きみや)さん39歳です。2人は、早ければ4年後に国際宇宙ステーションに滞在することになるそうです。

 さて、「リーダーシップ」「人を和ませる力」「ストレス耐性」「緊急対応能力」「覚悟」――これらが今回の宇宙飛行士の最終選考基準でした。よくみるとおわかりのように、「経営者」や「経営幹部」にも必要な資質と能力であることがわかります。つまり、これらの能力は一言でいうならば「人間力」です。この「人間力」は宇宙に行かなくても、地球上においても、やはり「魅力と能力のある人物の資質」と言えるのではないでしょうか。

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2008年9月29日 (月)

男の履歴書、女の履歴書

14_2  アメリカ大統領リンカーンの有名な逸話です。
 ある人が官邸の大統領に面会を求めてやって来ました。係りの者が大統領の執務室に、その旨を伝えにくると、すでに、その人物の姿を窓越しに眺めていた大統領は言いました。「私はあの男には会わない。相が悪いから」と。係りの者が不審そうに首を傾げると、大統領は言いました。「人間40歳を超えたら、自分の顔に責任を持たなければならない」

 40歳を超えた人間は顔に責任を持つ―――なかなか厳しい言葉です。しかしながら、昨今の食品の偽装事件を見ていると、うなづける節もあります。食肉加工の偽装で記者会見の席上で、息子にも「正直に」と促された「ミートホープ」の社長、飛騨牛の偽装でバレてからも食肉パックをかざして、潔白を装った食肉販売業者の「丸明」の社長、そして今回、被害者である酒造業主の自殺者まで出し、それでも財務部長から「ピンと来ていない感じ」といわれた「三笠フーズ」の社長などなど、みな共通した顔をしています。失礼ながら、いわゆる相が悪いのです。

 相が悪いといえば、「暴れん坊将軍」や「水戸黄門」に必ず出てくる、「そちも悪よのう」という悪代官や、「たっぷりお礼を」という三河屋の主人、みな「それらしい顔つき」をしています。そういえば事務所費の問題や汚染米の対応で、再三にわたり記者会見に出てきた農林水産大臣も、やはり相がよくありません。怒られるかもしれませんが、いい相か悪い相かの判定は簡単です。あの悪代官のキンキラキンの着物とマゲがぴったり似合う人は、やはりどうもまずい人です。

 「一億総白痴化」とテレビ時代に警鐘を鳴らした昭和のジャーナリスト大宅壮一氏もまた、「男の顔は履歴書」と名言を残しています。これはリンカーンの逸話に通じるもので、
 やっぱり、男は自分のすべてが顔に出るものなのでしょう。

 さて、それでは女性というと、これがまた過度に顔を意識しすぎているのではないでしょうか。こんなことをいうと、「男って何もわかっちゃいないんだから!いい気なもんよ」と怒られるかも知れませんが、デパートの1Fはどこもここも必ず化粧品売り場です。そして、あちらでもこちらでも顔のケアデモンストレーションをしています。テレビコマーシャルも「顔の商品」は本当に多いですね。そのくらい女性にとって、顔は重要なのかもしれません。

 でも、なのです。お気づきの方も多いと思うのですが、いま、電車の中で化粧をする若い女性が必ず1車両に一人はいます。女性の化粧はこういう手順と、こういう道具を使ってするのだという「おもしろさ」はありますが、まさに傍らに人の無きが如し「傍若無人」の振る舞いには、同じ女性でも顔をしかめる大人は多いようです。それでいてそのような子の中には、足が蚊にさされて無惨に赤い斑点で痛々しかったり、ひざ小僧が泥んこ遊びをしたようにゴツゴツ汚かったり、腹筋背筋がないせいか背中を丸めてだらしなく座り顎を出しているといった有様で、つまり顔以外にはまったく関心が無いように見えます。

 ところで、彼女たちは、いったい誰のためにあれほど夢中になって化粧をしているのでしょうか。彼のために?自分のために?そこがよくわかりません。自分がどう見えたら嬉しいのか、どうであれば美しいのか。「躾(しつけ)」とは、「身を美しく」と書きますが、漢字を創った人は、普遍的な真理を突いてすごいなあ!と改めて感心されます。
 さて、娘たちの嫌うオヤジの愚痴っぽくなってきましたね。でも私は思っているのです、「表情と立ち居振る舞い」こそが、いずれ「女性の履歴書」になると。

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2008年9月22日 (月)

古代ギリシャ・ローマ人の目で見ると

13_2  大作「ローマ人の物語」で有名な塩野七生さんが、文芸春秋10月号に「オリンピック・雑感」というタイトルで面白いことを書いていました。
 彼女は、現在ローマに住んでいます。そのため、TVのオリンピック放映もイタリア選手を中心に、しかも時間帯も昼夜逆なのであまり見なかった、ということを断りながら感想を述べていました。というより、スポーツのルールもよくわからないそうなので、あまり興味がないのかもしれません。しかし、それがかえって私のようなスポーツ大好き人間から見ると、彼女の話が新鮮で、確かにそうだなあと考えさせられました。

 というのは、まず彼女が取り上げたのは選手たちの体格。たとえば砲丸投げの選手などは、熊と人間のギリギリの境にあって美しくないといいます。ローマの美術館にある古代ギリシャの有名な「円盤投げ」の彫刻などは、普通の男なのに見事な美の極地に達していると。また、気に入らないのは点数主義。フェンシングは彼女も少しやったことがあるそうですが、喉元を突く致命傷を与えても、そのわずか一瞬前に相手の腕をかすったほうがポイントになるのはおかしい、しかも、「あのへんてこな線」を引きながら闘うに至ってはもはや剣技ではないと言い切ります。このようなポイント至上主義は、競技をますます女性化させると。体操競技なども同じで、ごくつまらないミスを数え上げるやり方は、体技が本来持っているおおらかさを失わせると、偏差値教育の弊害にまで話が及んでいました。

 彼女の言うように、古代ギリシャやローマでの競技は、突き詰めれば「人間賛歌」だったはずで、もっともっとおおらかに喜びや賛美があったように思います。現代のオリンピック競技が、ミスを探して減点し、それで優劣を競うというのは、何かスポーツ本来の素晴らしさから離れているような気もします。私たちは、テレビや競技場で「いまのスポーツ」を見慣れていますが、塩野さんのような指摘は確かに新鮮で、「スポーツの原点って、彼女の言うとおりかもしれない。現代スポーツは、何か違う方向に向かっているのかな」とふと思ってしまいます。

 14世紀後半のイタリアを中心に「ルネッサンス運動」が起こりますが、これは「再生」という意味で、まさにギリシャ・ローマの時代のヒューマニズムへの回帰を意味します。という視点で眺めると、もしかしたら塩野七生さんは長い間ローマ人を研究しているうちに、いつの間にか彼女自身が「古代ギリシャ・ローマの人間」に、なりきってしまったのではないかと思いました。つまり、「人間がもっとも美しく素晴らしかった時代」の眼を、彼女は、いま持ち合わせているように思えるのです。

 私たちはスポーツという競技に夢中になっているうちに、いつの間にか、「本来、人間の競技とは」とか、「本来、人間の美しさとは」とかという「素朴な視点」が失われてきているようにも思えます。スポーツに限らず、人間は、これからどこへ行こうとしているのか―――塩野さんがローマ人の物語を描いてきたのは過去のことでなく、「私たちの未来のため」のように思えてくるのです。

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2008年9月 8日 (月)

「何が何でも」が、あるかどうか

12w  福田総理が辞任の記者会見で、質問の記者から「総理の会見が国民には他人事のように聞こえるというふうな話がよく聞かれておりました。・・・」と言われたのに対し、「私は自分のことを客観的に見えるんですよ。あなたと違うんですよ」といったことが話題になっています。「あなたと違うんですよ」という言葉が流行語大賞にノミネートされる話や、このフレーズと似顔絵がTシャツになって売れているという話も聞きます。

 その話題はともかく、一国の首相が「自分のことを客観的に見える」と自分で言い放った心理と自意識に興味があります。おそらく、今回の辞任も、周囲の状況と自分の状況を冷静客観的に判断して決めたことで、おそらく「最高のタイミング」と自負しているのではないでしょうか。そして、さらに「後継者選びを盛り上げてほしい」旨の話もしています。

 ここで肝心なのは「ひとごとのように」の意味です。国民や記者は「本来、その問題は首相に解決すべき責任があるのに、まるで自分は責任者ではないと思っているのではないか」いう詰問なのです。にもかかわらず、話がかみ合わないのは、福田首相自身が、おそらく自ら主体的に物事に取り組んで問題を解決しようという強い意思を持ち合わせていないで、今日まで当たり前に過ごしてこられたからだと思っています。

 彼は小泉内閣の幹事長のときに、見事な報道官を務めました。この仕事は、己の情熱や執着は必要なく、いかに冷静に事を進めるかが重要です。つまり、自民党は総理の資質にない人を総理にし、福田さんも日本のトップリーダーとして自分が命を懸けてやりたいことがないのに総理になったことが不幸な結果を招きました。誰にとって不幸かといえば、国民にであり日本国家にです。

 北京オリンピックでも、本気でやる気がない日本人の姿が、一生懸命がんばった選手の陰で目に付きました。メダルを取れたかどうか、勝ったかどうかでなく、もう、試合の最中に、「ああ、この試合は負けるな」とわかる場面が、サッカーと野球でありました。

 サッカーの予選の組は、強豪ぞろいなので、アメリカ戦は是が非でも落としたくない試合でした。それが、ロスタイムの前半終了間際、日本にコーナーキックの絶好のチャンスがめぐってきたのです。時間がないので、いつ笛を吹かれてもしょうがないので、「何が何でも」急いでボールをゴール前にあげなければなりません。さて、そこで日本チームはどうしたか。おもむろに数人の選手が水を飲みだしたのです。なかなか蹴る人が決まりません。いざというときに、タイムアップの笛の音。勝負が見えた間抜けな光景でした。
 プロでありながら、「何が何でも点を取りたい!」という執着がないのです。要は、命をかけてやるほどの気はないのです。これでは勝てるはずがありません。

 次は野球です。初戦打ち込まれたダルビッシュが次の試合で坊主になってベンチに入りました。その次の試合で、ふがいない何人かが、同じく坊主になってベンチへ。当人たちは、ふがいない自分へのお詫びのつもりで坊主になったのでしょう。しかし、これは間違いです。グランドの借りはグランドで返すべきです。「私は反省しています。申し訳ありません」を坊主で示すのは、単なるパフォーマンスで本人がラクな気持ちになりたいだけです。自分のふがいなさは、試合で返すまで唇かみ締めて耐えることが責任です。それが、軒並み坊主になってベンチでメガホンたたいて応援している姿を見たとき、これで野球もメダルどころではないなと思いました。

 「やる気」のない者がポストについてはいけません。それは政治でも、スポーツでも、経営でも、すべて組織では同じです。「何が何でも、こうしたい!」という激しい情熱のない者からは何も生まれないのです。下手でもいい、未熟でもいい!「何が何でも」の情熱と執着と気迫が私には尊く思えるのです。

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2008年7月28日 (月)

人間の喜びの原点、つくる・そだてる

07_2  私の2階の仕事場から窓の外を見ると、低地の林だったところが、いまは広い畑になっていて、見るたびにさまざまな作物が作られています。実は、この畑を耕し野菜を作っているのはお百姓さんではなくて男性3人の高齢者の方々です。

 いまは、さすがに昼間は猛暑で姿を見かけませんが、いつもはお昼時になると、やや粗末な手作り小屋の前で、台をしつらえ車座になって、お昼を食べています。といっても、遠めに見ているので、それがどのような内容の食事なのかは判然としません。でも、台のすぐそばに煙が見えるので、お湯を沸かしているのか、それとも何かを焼いているのでしょうか。ただ、時々聞こえる3人の笑い声が、なんとも楽しそうで、見ている私までが思わず笑顔になってしまいます。

 いつも都会のど真ん中で、(自分自身も同じなのですが)背広やワイシャツ、パンツスーツ姿の人ばかりを見慣れていると、なんとも新鮮でうらやましくさえ映ります。そして、あの楽しさは、どこから来るのだろうと、時々思うのです。
 そこで沈思黙考、思うに、あの楽しさは、私たちの祖先がずーっと味わってきた楽しさなのではないか――― つまり、長い長い人類の歴史の中で、縄文の時代から延々と続いてきた「ともに汗を流す生産の喜び」ではないかと思うのです。

 人類は狩をする時も、米を作るときも、ずーっと仲間と一緒に汗を流し、ともに生産の喜びを味わってきました。ですから、まさに「地産地消」ならぬ「自産自消」だったわけです。それが、人間の多くが、他人の作った生産物をただ消費するだけの、分業社会になってしまいました。

 いまや日本の食料自給率38パーセント、この低さに驚かれる方は少なくないはずです。
 しかもせっかく自然の恵みいっぱいの海を、有明海のように、農地を作る大義名分のもとに鉄のシャッターを下ろして海を殺してしまう。かと思うと、米ができすぎて米価が下落するからと、「減反」で田んぼを潰せと指示を出す。縄文の人々が聞いたら、「現代人は絶対に間違っている!」と、全員が全員、異を唱えるに違いありません。

 穀物がバイオ燃料として買い占められ、食卓のものがドンドンと高くなっていきます。世界の富裕なお金で石油が買い占められて、猟師さんが海に出られません。私たちの生活が金融に支配され、生活を壊されていきます。都会では人が人材でなく、派遣社会で「使い捨て」になっています。いまの世の中は明らかにおかしい、これが多くの人々の実感ではないでしょうか。

 いま私たちは、何が当たり前で、何が当たり前でないのか、そして人間の幸せとは何か、がわからなくなっているようにも思えます。世界が自浄能力を失いつつあります。
 こんな時代だからこそ、祖先から続いてきた人間の原点的な喜び、そう――「ともに汗をかいて、つくる・そだてる」ことを、世の中のすべての人に呼びかけたいと思うのです。いいかえれば、人やモノ、地球上のすべての資源を「ひたすら使う、消費する」のではなく、「汗を流してつくる・そだてる」に転換することが、人類を、地球を幸せのベクトルに向かわせることができると確信するのですが。

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