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2012年12月

2012年12月14日 (金)

足し算の人・中村勘三郎

65  子どもの頃、父によく歌舞伎、新派、新国劇、文楽に連れて行ってもらいました。新派の花柳や八重子、新国劇の島田や辰巳、文楽は豊竹山城少掾の引退記念講演も鮮明に記憶に残っています。もちろん、歌舞伎は風格ある先代の幸四郎、その弟で声のいい松禄、軽妙洒脱な勘三郎、美しかった扇雀(現・坂田藤十郎)など数えたらキリがありません。

 当時、私の家は麹町の化粧品屋で、近くに住んでいた染五郎(現・松本幸四郎)や弟の中村吉衛門などが好青年の頃、よくお手伝いさんと一緒に買い物に来ました。また私の中学が先代の勘三郎(本名・波野)の家のそばだったせいもあり、中学の友達などは波野家の長女・久里子と小学校の同級で、波野家に行っては久里子やその弟と遊んでいたようです。いま新派の大女優が、その波野久里子で、その弟こそ、先日亡くなった中村勘三郎です。

 連日、TVなどでは誰にでも慕われた勘三郎のエピソードを流しましたが、若くして惜しまれて、という次元で語る人物だけではないと思っています。中村勘三郎を語る人々も言葉もいろいろでしょうが、私は、彼の死によって歌舞伎が21世紀と融合する大きなチャンスを失ったと思っています。彼は、亡き筑紫哲也が「現代の天才」として2名挙げた桑田圭佑ともう一人の人物・野田秀樹などと一緒に創作歌舞伎を演じたり、まさに歌舞伎界の革命児だったのです。

 しかし、いわゆる改革者や革命家と、明らかな違いが勘三郎にはありました。それは、「平成中村座」に象徴される、歌舞伎の「原点への回帰者」という姿です。ご存知のように、歌舞伎の発祥は安土桃山期の出雲阿国。そのかぶく者としての芝居小屋の見世物の流れを見事に引き継ぎ、隅田川沿いに「平成中村座」を起し、しかもニューヨーク講演はじめ、歌舞伎が現代に生きる道のあることを、見事に証明してきたのです。ライバルは「嵐」とも自ら言ったといわれる勘三郎には、芝居小屋の歌舞伎が決して古いものでなく、当時、時代の最先端であった阿国歌舞伎や中村座創始者の江戸期の中村勘三郎の姿が、「“いま”に生きるかぶく者の姿」として明確に脳裏にあったのではないでしょうか。生きていたら、中村勘三郎は、あくまでも歌舞伎として、AKB48とも競演していたかもしれません。

 新しい歌舞伎座がもうすぐ完成します。この新歌舞伎座も、そうなるのでしょうが、丸の内界隈の高層ビルのいくつかは、明治の優れた建築をそのまま生かしながら21世紀の高層ビルと融合させたものです。古き建築を壊すのでなく、そのすばらしさを温存し、高層ビルと一緒に新しく現代に生まれ変わる、まさに「足し算の美学」といえましょう。
 いわゆる改革は、破壊の上に成り立つ、いわば「引き算」が根底にありますが、勘三郎は、歌舞伎が「足し算」で新しく生まれ変われる方法があることを、見事に証明してくれました。(もし、企業の経営改革も、「引き算」でなく「足し算」でできたら、どれほどすばらしいかわかりません。)

 ただ、芸は建物と違って残らず、時間とともに消えていきます。21世紀の申し子であり歌舞伎の天才・中村勘三郎の死は、悲観的に考えれば「現代と歌舞伎との融合」のチャンスを永遠に失った瞬間だったのかもしれません。つまり勘三郎は、改革者や革命児ではなく、「時代との融合者」であり、時が経つにつれて、ますます不世出の人物の感を強くしていくのではないでしょうか。

 でも、その一方で、何とか、という気持ちも捨て切れません。新・勘九郎の「父を忘れないで下さい」の口上が、歌舞伎界を担う若者たち全員の「中村勘三郎の魂をしっかりと受け継ぎます」に変わり、勘三郎から魂が引き継がれ、「現代と歌舞伎との融合」のチャンスがふたたび巡ってくることを、ひそかに願っている方々も多いのではないでしょうか。
(文中の登場人欝は全て敬省略)

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