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2009年5月

2009年5月25日 (月)

裁判前に「12人の怒れる男」を

39  いよいよ裁判員制度がスタートしました。国民が是非を論ずる経緯のないまま、いつの間にか法務省が音頭をとって、国民皆兵ならぬ国民総裁判員になってしまいました。
 何年も司法試験に合格するために専門的な勉強をしても、なかなか合格しない法曹の世界に、一切の資格も持たない素人がポンとある日裁判に参加し、死刑だの無期だのと他人を裁くのです。これはどう考えてもムリが眼に見えています。

 そもそも裁判員制度とは、何が目的なのかと法務省のホームページを見ると、このように答えています。「専門的な正確さを重視する余り審理や判決が国民にとって理解しにくいものであったり,一部の事件とはいえ,審理に長期間を要する事件があったりして,そのため,刑事裁判は近寄りがたいという印象を与えてきた面もあったと考えられます。また,現在,多くの国では刑事裁判に直接国民が関わる制度が設けられており,国民の司法への理解を深める上で大きな役割を果たしています。」

 要約すると、①判決が国民に理解しにくい ②審理に時間がかかりすぎる ③刑事裁判は近寄りがたい印象 ④外国では直接国民が関わる制度がある の4点です。
 もし、この4点が裁判員制度の導入根拠だとすると、「おいおい」と言わざるを得ません。
 ①の判決が理解しにくいのは、裁判官が国民目線で説明できないだけであり、司法合格の資格条件として彼らの社会性を高める教育をすればいいことです。説明がわかりにくいからといって、受けて側を審理に参加させるのは、電気屋で店員がパソコンをお客様にわかりやすく説明できないから、お客様に店員になってもらうようなものでオカシな話です。
 ②の審理に時間がかかりすぎるのは、国民が入れば早くなるということなので、これも専門家の仕事の仕方に問題があることになります。③の近寄りがたい印象などというのは、どうでもいいことで本質的な問題ではありません。④外国では多くが導入している、についても、ただ外国がそうだから日本もそうするでは、歴史風土を無視した軽々しい迎合判断といわれてもいたしかありません。

 とみていくと、少なくとも法務省のコメントの中には「明確な導入根拠」が何一つありません。この4つの根拠をつなぎ合わせると、「司法に携わる専門家が社会常識に欠けていて時間もダラダラやっているから、国民が参加して分別ある判決を速やかに出して欲しい」とも聞こえてしまいます。

 イギリスを発祥とする12人の陪審員制度は、国王の権利についてが審議の最初で1000年以上もの歴史をもち、アメリカの陪審員制度もそれなりの歴史を持っています。よって、欧米ではもともと市民の自治や権力への抑制など参加型の民主主義形態のひとつとして発達してきたものです。ところが日本では140年前まで、遠山の金さんや暴れん坊将軍の大岡越前守など、お上がお白州で裁きを行ってきたわけです。アメリカのように、いまでもそうですが「銃を持って自らの命を守る」という開拓魂に裏打ちされた自主自立の精神などとは歴史も風土も違うのです。ですからステップも踏まず、歴史的な訓練もないまま、「人を裁く」事を国民に強いるのは明らかにムリがあろうというものです。

 人が人を高いところから裁くことを、自分の人生観や倫理観から受け容れられない人々も大勢いらっしゃるはずです。そもそも国民には「勤労の義務」「納税の義務」「子どもに教育を受けさせる義務」の3大義務が憲法に定められていますが、「人を裁く義務」などはありません。この裁判員制度は「国民の任意」にすべきであって、それを一律に義務化することは憲法違反であると私は考えています。それでなくても赤字財政なのに、福祉制度がなおざりになっている中で、またまた私たちの税金がこの裁判員制度に投入されていきます。おそらく、今後さまざまな弊害や問題が噴出してくることでしょう。

 いま世の中がおかしくなってきいます。政治家は国民に借金をさせてお金を政権維持のために好きなようにバラ撒く、役人は自分の利権と天下り先の確保に躍起になる、ちなみに法務省が、この裁判員制度に求めているメリットは何か。憤ることばかりですが、我々国民は気を取り直して現実的に最善を尽くして生きていかなければなりません。
 さて、ヘンリーフォンダ主演の「12人の怒れる男」(1957年)という名作映画あります。人間心理の奥にある偏見、エゴ、欲など「人が人を裁くとはどういうことなのか」を知る最高の教科書です。裁判員に選ばれた方は、ぜひ、見てから裁判に参加されることをお勧めします。

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2009年5月 4日 (月)

草なぎクンを起用した企業が、コマーシャルに求めるもの

 ちょっと時が経ってしまいましたが、「草なぎ剛、公然わいせつ容疑で逮捕」---何ともおどろおどろしい話でしたね。新聞もテレビも、一斉に報道しました。一体、何をしたのだろうと驚くと、実は「誰もいない公園で夜中の3時頃、裸になって大声を出して騒いだ」というだけ。人前で痴漢でもしたのかと思ったら、まるで拍子抜けでした。

 そもそもおかしですよね。真夜中の3時に誰もいない公園が、「公然」になるのでしょうか?誰も見ていないところで素っ裸になると、これが「わいせつ」になるのでしょうか?一体、警察の誰が、こんなバカバカしい判断をしたのかと思ったら、その翌日、総務大臣が「最低!」と会見を開く。もう、日本という国は、いつからこんな「ガチガチあたま」の息の詰まるような社会になってしまったのでしょうか。日本国民として情けなくなりました。

 テレビドラマで、こんな映像を想像してみてください。
 恋人との間に問題を抱え仕事にも疲れた青年が、つい心を許した店で深酒をして帰路に着く。酩酊状態の彼を心配して店の人が「大丈夫?」と送ってくれるが、「ここからはひとりで帰れるから」と家の近くで車を下りる。千鳥足で迷い込んだ誰もいない公園。ベンチに座ると、さまざまな思いが去来してやるせない気持ちが一気にこみ上げる。「バーカ、バーカ」と口にしながら服を脱ぎ、何度も何度もでんぐり返しをする彼。いつの間にか降り出した雨が、彼の細身の体を濡らしていく。その裸のまま胡坐をかいて、雨に濡れながら天を仰ぎ大声で叫ぶ。その彼を、カメラはローアングルから公園を俯瞰する位置に移動していく。

 今回の事件の現実が、こんな夢物語でなかったことはご存知の通りです。しかしながら、こんなシーンのモチーフにもできる程度の「できこと」なのです。石原慎太郎都知事の正直な言葉、「俺もやってみたいよ」。多くの男の人が、そう思ったに違いありません。

 多少のお騒がせで近隣に迷惑をかけたこと以外に、いったい彼に何の罪があるのでしょう。コマーシャルスポンサーが軒並み広告を取りやめにして、企業に多大な損害を与えたことが彼の罪なのか。ちょっと待って欲しいのです。彼を起用したのも企業の意志だし、彼のコマーシャルを取りやめたのも企業の意志のはずです。そもそも「草なぎクンの酒の失敗」で、はたしてスポンサー企業は、企業イメージに甚大な被害を蒙ったのでしょうか。

 毎日のように、あっちの企業の偽装や、こっちの企業の反社会行為で経営者が頭を下げています。どの顔を見ても、心からわびているようには思えません。こんな建前の記者会見でお茶を濁して、後はのうのうとしている輩に比べれば、草なぎクンの反省記者会見が、どれほど「心からの反省」であったかご覧になった方はわかろうというもの。自分の過ちに正面から向き合い、質問にも逃げることなく言葉を捜しながら精一杯応えている姿を見て、むしろ「やっぱり彼は、あの通りの好青年なんだ」と思われた方が多かったのではないでしょうか。

 私がスポンサー企業の経営者なら、いますぐにでもコマーシャルを復活放映させます。しかも、杓子定規の世間体などにはきょろきょろせず、毅然たる態度で。その信念と勇気ある行動に、草なぎクンのファンでなくても、その企業と商品はまちがいなく善良なる市民の絶大な支持を得て、企業イメージは以前よりアップするはずです。

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