« オリンピックの精神「平和」を考える | トップページ | 古代ギリシャ・ローマ人の目で見ると »

2008年9月 8日 (月)

「何が何でも」が、あるかどうか

12w  福田総理が辞任の記者会見で、質問の記者から「総理の会見が国民には他人事のように聞こえるというふうな話がよく聞かれておりました。・・・」と言われたのに対し、「私は自分のことを客観的に見えるんですよ。あなたと違うんですよ」といったことが話題になっています。「あなたと違うんですよ」という言葉が流行語大賞にノミネートされる話や、このフレーズと似顔絵がTシャツになって売れているという話も聞きます。

 その話題はともかく、一国の首相が「自分のことを客観的に見える」と自分で言い放った心理と自意識に興味があります。おそらく、今回の辞任も、周囲の状況と自分の状況を冷静客観的に判断して決めたことで、おそらく「最高のタイミング」と自負しているのではないでしょうか。そして、さらに「後継者選びを盛り上げてほしい」旨の話もしています。

 ここで肝心なのは「ひとごとのように」の意味です。国民や記者は「本来、その問題は首相に解決すべき責任があるのに、まるで自分は責任者ではないと思っているのではないか」いう詰問なのです。にもかかわらず、話がかみ合わないのは、福田首相自身が、おそらく自ら主体的に物事に取り組んで問題を解決しようという強い意思を持ち合わせていないで、今日まで当たり前に過ごしてこられたからだと思っています。

 彼は小泉内閣の幹事長のときに、見事な報道官を務めました。この仕事は、己の情熱や執着は必要なく、いかに冷静に事を進めるかが重要です。つまり、自民党は総理の資質にない人を総理にし、福田さんも日本のトップリーダーとして自分が命を懸けてやりたいことがないのに総理になったことが不幸な結果を招きました。誰にとって不幸かといえば、国民にであり日本国家にです。

 北京オリンピックでも、本気でやる気がない日本人の姿が、一生懸命がんばった選手の陰で目に付きました。メダルを取れたかどうか、勝ったかどうかでなく、もう、試合の最中に、「ああ、この試合は負けるな」とわかる場面が、サッカーと野球でありました。

 サッカーの予選の組は、強豪ぞろいなので、アメリカ戦は是が非でも落としたくない試合でした。それが、ロスタイムの前半終了間際、日本にコーナーキックの絶好のチャンスがめぐってきたのです。時間がないので、いつ笛を吹かれてもしょうがないので、「何が何でも」急いでボールをゴール前にあげなければなりません。さて、そこで日本チームはどうしたか。おもむろに数人の選手が水を飲みだしたのです。なかなか蹴る人が決まりません。いざというときに、タイムアップの笛の音。勝負が見えた間抜けな光景でした。
 プロでありながら、「何が何でも点を取りたい!」という執着がないのです。要は、命をかけてやるほどの気はないのです。これでは勝てるはずがありません。

 次は野球です。初戦打ち込まれたダルビッシュが次の試合で坊主になってベンチに入りました。その次の試合で、ふがいない何人かが、同じく坊主になってベンチへ。当人たちは、ふがいない自分へのお詫びのつもりで坊主になったのでしょう。しかし、これは間違いです。グランドの借りはグランドで返すべきです。「私は反省しています。申し訳ありません」を坊主で示すのは、単なるパフォーマンスで本人がラクな気持ちになりたいだけです。自分のふがいなさは、試合で返すまで唇かみ締めて耐えることが責任です。それが、軒並み坊主になってベンチでメガホンたたいて応援している姿を見たとき、これで野球もメダルどころではないなと思いました。

 「やる気」のない者がポストについてはいけません。それは政治でも、スポーツでも、経営でも、すべて組織では同じです。「何が何でも、こうしたい!」という激しい情熱のない者からは何も生まれないのです。下手でもいい、未熟でもいい!「何が何でも」の情熱と執着と気迫が私には尊く思えるのです。

|

« オリンピックの精神「平和」を考える | トップページ | 古代ギリシャ・ローマ人の目で見ると »

ビジネス」カテゴリの記事

心と体」カテゴリの記事

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« オリンピックの精神「平和」を考える | トップページ | 古代ギリシャ・ローマ人の目で見ると »