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2008年9月

2008年9月29日 (月)

男の履歴書、女の履歴書

14_2  アメリカ大統領リンカーンの有名な逸話です。
 ある人が官邸の大統領に面会を求めてやって来ました。係りの者が大統領の執務室に、その旨を伝えにくると、すでに、その人物の姿を窓越しに眺めていた大統領は言いました。「私はあの男には会わない。相が悪いから」と。係りの者が不審そうに首を傾げると、大統領は言いました。「人間40歳を超えたら、自分の顔に責任を持たなければならない」

 40歳を超えた人間は顔に責任を持つ―――なかなか厳しい言葉です。しかしながら、昨今の食品の偽装事件を見ていると、うなづける節もあります。食肉加工の偽装で記者会見の席上で、息子にも「正直に」と促された「ミートホープ」の社長、飛騨牛の偽装でバレてからも食肉パックをかざして、潔白を装った食肉販売業者の「丸明」の社長、そして今回、被害者である酒造業主の自殺者まで出し、それでも財務部長から「ピンと来ていない感じ」といわれた「三笠フーズ」の社長などなど、みな共通した顔をしています。失礼ながら、いわゆる相が悪いのです。

 相が悪いといえば、「暴れん坊将軍」や「水戸黄門」に必ず出てくる、「そちも悪よのう」という悪代官や、「たっぷりお礼を」という三河屋の主人、みな「それらしい顔つき」をしています。そういえば事務所費の問題や汚染米の対応で、再三にわたり記者会見に出てきた農林水産大臣も、やはり相がよくありません。怒られるかもしれませんが、いい相か悪い相かの判定は簡単です。あの悪代官のキンキラキンの着物とマゲがぴったり似合う人は、やはりどうもまずい人です。

 「一億総白痴化」とテレビ時代に警鐘を鳴らした昭和のジャーナリスト大宅壮一氏もまた、「男の顔は履歴書」と名言を残しています。これはリンカーンの逸話に通じるもので、
 やっぱり、男は自分のすべてが顔に出るものなのでしょう。

 さて、それでは女性というと、これがまた過度に顔を意識しすぎているのではないでしょうか。こんなことをいうと、「男って何もわかっちゃいないんだから!いい気なもんよ」と怒られるかも知れませんが、デパートの1Fはどこもここも必ず化粧品売り場です。そして、あちらでもこちらでも顔のケアデモンストレーションをしています。テレビコマーシャルも「顔の商品」は本当に多いですね。そのくらい女性にとって、顔は重要なのかもしれません。

 でも、なのです。お気づきの方も多いと思うのですが、いま、電車の中で化粧をする若い女性が必ず1車両に一人はいます。女性の化粧はこういう手順と、こういう道具を使ってするのだという「おもしろさ」はありますが、まさに傍らに人の無きが如し「傍若無人」の振る舞いには、同じ女性でも顔をしかめる大人は多いようです。それでいてそのような子の中には、足が蚊にさされて無惨に赤い斑点で痛々しかったり、ひざ小僧が泥んこ遊びをしたようにゴツゴツ汚かったり、腹筋背筋がないせいか背中を丸めてだらしなく座り顎を出しているといった有様で、つまり顔以外にはまったく関心が無いように見えます。

 ところで、彼女たちは、いったい誰のためにあれほど夢中になって化粧をしているのでしょうか。彼のために?自分のために?そこがよくわかりません。自分がどう見えたら嬉しいのか、どうであれば美しいのか。「躾(しつけ)」とは、「身を美しく」と書きますが、漢字を創った人は、普遍的な真理を突いてすごいなあ!と改めて感心されます。
 さて、娘たちの嫌うオヤジの愚痴っぽくなってきましたね。でも私は思っているのです、「表情と立ち居振る舞い」こそが、いずれ「女性の履歴書」になると。

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2008年9月22日 (月)

古代ギリシャ・ローマ人の目で見ると

13_2  大作「ローマ人の物語」で有名な塩野七生さんが、文芸春秋10月号に「オリンピック・雑感」というタイトルで面白いことを書いていました。
 彼女は、現在ローマに住んでいます。そのため、TVのオリンピック放映もイタリア選手を中心に、しかも時間帯も昼夜逆なのであまり見なかった、ということを断りながら感想を述べていました。というより、スポーツのルールもよくわからないそうなので、あまり興味がないのかもしれません。しかし、それがかえって私のようなスポーツ大好き人間から見ると、彼女の話が新鮮で、確かにそうだなあと考えさせられました。

 というのは、まず彼女が取り上げたのは選手たちの体格。たとえば砲丸投げの選手などは、熊と人間のギリギリの境にあって美しくないといいます。ローマの美術館にある古代ギリシャの有名な「円盤投げ」の彫刻などは、普通の男なのに見事な美の極地に達していると。また、気に入らないのは点数主義。フェンシングは彼女も少しやったことがあるそうですが、喉元を突く致命傷を与えても、そのわずか一瞬前に相手の腕をかすったほうがポイントになるのはおかしい、しかも、「あのへんてこな線」を引きながら闘うに至ってはもはや剣技ではないと言い切ります。このようなポイント至上主義は、競技をますます女性化させると。体操競技なども同じで、ごくつまらないミスを数え上げるやり方は、体技が本来持っているおおらかさを失わせると、偏差値教育の弊害にまで話が及んでいました。

 彼女の言うように、古代ギリシャやローマでの競技は、突き詰めれば「人間賛歌」だったはずで、もっともっとおおらかに喜びや賛美があったように思います。現代のオリンピック競技が、ミスを探して減点し、それで優劣を競うというのは、何かスポーツ本来の素晴らしさから離れているような気もします。私たちは、テレビや競技場で「いまのスポーツ」を見慣れていますが、塩野さんのような指摘は確かに新鮮で、「スポーツの原点って、彼女の言うとおりかもしれない。現代スポーツは、何か違う方向に向かっているのかな」とふと思ってしまいます。

 14世紀後半のイタリアを中心に「ルネッサンス運動」が起こりますが、これは「再生」という意味で、まさにギリシャ・ローマの時代のヒューマニズムへの回帰を意味します。という視点で眺めると、もしかしたら塩野七生さんは長い間ローマ人を研究しているうちに、いつの間にか彼女自身が「古代ギリシャ・ローマの人間」に、なりきってしまったのではないかと思いました。つまり、「人間がもっとも美しく素晴らしかった時代」の眼を、彼女は、いま持ち合わせているように思えるのです。

 私たちはスポーツという競技に夢中になっているうちに、いつの間にか、「本来、人間の競技とは」とか、「本来、人間の美しさとは」とかという「素朴な視点」が失われてきているようにも思えます。スポーツに限らず、人間は、これからどこへ行こうとしているのか―――塩野さんがローマ人の物語を描いてきたのは過去のことでなく、「私たちの未来のため」のように思えてくるのです。

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2008年9月 8日 (月)

「何が何でも」が、あるかどうか

12w  福田総理が辞任の記者会見で、質問の記者から「総理の会見が国民には他人事のように聞こえるというふうな話がよく聞かれておりました。・・・」と言われたのに対し、「私は自分のことを客観的に見えるんですよ。あなたと違うんですよ」といったことが話題になっています。「あなたと違うんですよ」という言葉が流行語大賞にノミネートされる話や、このフレーズと似顔絵がTシャツになって売れているという話も聞きます。

 その話題はともかく、一国の首相が「自分のことを客観的に見える」と自分で言い放った心理と自意識に興味があります。おそらく、今回の辞任も、周囲の状況と自分の状況を冷静客観的に判断して決めたことで、おそらく「最高のタイミング」と自負しているのではないでしょうか。そして、さらに「後継者選びを盛り上げてほしい」旨の話もしています。

 ここで肝心なのは「ひとごとのように」の意味です。国民や記者は「本来、その問題は首相に解決すべき責任があるのに、まるで自分は責任者ではないと思っているのではないか」いう詰問なのです。にもかかわらず、話がかみ合わないのは、福田首相自身が、おそらく自ら主体的に物事に取り組んで問題を解決しようという強い意思を持ち合わせていないで、今日まで当たり前に過ごしてこられたからだと思っています。

 彼は小泉内閣の幹事長のときに、見事な報道官を務めました。この仕事は、己の情熱や執着は必要なく、いかに冷静に事を進めるかが重要です。つまり、自民党は総理の資質にない人を総理にし、福田さんも日本のトップリーダーとして自分が命を懸けてやりたいことがないのに総理になったことが不幸な結果を招きました。誰にとって不幸かといえば、国民にであり日本国家にです。

 北京オリンピックでも、本気でやる気がない日本人の姿が、一生懸命がんばった選手の陰で目に付きました。メダルを取れたかどうか、勝ったかどうかでなく、もう、試合の最中に、「ああ、この試合は負けるな」とわかる場面が、サッカーと野球でありました。

 サッカーの予選の組は、強豪ぞろいなので、アメリカ戦は是が非でも落としたくない試合でした。それが、ロスタイムの前半終了間際、日本にコーナーキックの絶好のチャンスがめぐってきたのです。時間がないので、いつ笛を吹かれてもしょうがないので、「何が何でも」急いでボールをゴール前にあげなければなりません。さて、そこで日本チームはどうしたか。おもむろに数人の選手が水を飲みだしたのです。なかなか蹴る人が決まりません。いざというときに、タイムアップの笛の音。勝負が見えた間抜けな光景でした。
 プロでありながら、「何が何でも点を取りたい!」という執着がないのです。要は、命をかけてやるほどの気はないのです。これでは勝てるはずがありません。

 次は野球です。初戦打ち込まれたダルビッシュが次の試合で坊主になってベンチに入りました。その次の試合で、ふがいない何人かが、同じく坊主になってベンチへ。当人たちは、ふがいない自分へのお詫びのつもりで坊主になったのでしょう。しかし、これは間違いです。グランドの借りはグランドで返すべきです。「私は反省しています。申し訳ありません」を坊主で示すのは、単なるパフォーマンスで本人がラクな気持ちになりたいだけです。自分のふがいなさは、試合で返すまで唇かみ締めて耐えることが責任です。それが、軒並み坊主になってベンチでメガホンたたいて応援している姿を見たとき、これで野球もメダルどころではないなと思いました。

 「やる気」のない者がポストについてはいけません。それは政治でも、スポーツでも、経営でも、すべて組織では同じです。「何が何でも、こうしたい!」という激しい情熱のない者からは何も生まれないのです。下手でもいい、未熟でもいい!「何が何でも」の情熱と執着と気迫が私には尊く思えるのです。

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2008年9月 1日 (月)

オリンピックの精神「平和」を考える

 北京オリンピックが終わりました。
 たくさんのドラマがあり、感動があり、そしてさまざまな問題も残して終わりました。
 戦い済んだアスリートたちの心に残るコメントもいっぱいありました。そのなかで、日本に帰ってきてからレスリングの伊調千春が、金メダルの吉田沙織と妹の伊調馨と並んで母校の壇上から言ったコメント、「こんなにきれいな銀メダルを取ることができました。金メダルよりもすばらしい銀があることを知りました」を聞いたとき、私の心の中を気持ちの良い風がサアッと吹き抜けました。彼女の表情には、さわやかな達成感と静かな歓喜が浮かんでいました。スポーツは、すばらしい!そして、人間って、やっぱりすばらしい!

 さて、せっかくのオリンピックなのですから、気持ちのいい話だけをしたいのですが、どうしても、このオリンピックの陰で泣いている北京の人や苦しんでいる人の影がちらついて消えません。先日もTV報道で、言論の自由を証明するかのような「デモ行進を許可した道路」を写していました。しかしながら、肝心のOOへの抗議デモが実際に行われるかというと、届出はすべて却下、時には関係者が拘束される現実を暴露していました。
 また、宗教の自由を外国メディアに証明するために、キリスト教の教会を撮影許可して、信者や神父に、あたかも国家がキリスト教を守っているかのような発言をさせるかと思うと、地下にもぐったキリスト教徒たちを連行・迫害する隠しカメラの映像も放映していました。

 ただ、ここで中国を非難するのは簡単です。しかし、間違えてはいけないことが、ひとつあります。それは、現在の中国が共産主義体制であり、全体主義の国であるということです。つまり、「自由」とか「平等」とか言うのは西洋の文化と価値観だということです。ちなみに、この「自由」「平等」を大衆が手に入れるまでには、どれほど多くの血が流れてきたかは、近代ヨーロッパの歴史が証明するところです。
 一方、中国が51の民族を抱えた広大な領土を統治するには、絶大なリーダーシップと多少の犠牲は不可欠という考え方が根底にあるということでしょう。自国民を戦車で轢き殺した天安門事件は、その象徴的な歴史的出来事です。

 中国は古代から神から指名を受けたといわれる天子様が政治を行い、傑出した統治者が現れて乱れた国々をまとめてきたという歴史的事実があります。そしてシルクロードを見るまでもなく、世界の中心はこの漢民族を中心にした国にあるという思想が、「中華人民共和国」の「中華」という言葉に表れています。これが中国為政者の思想です。

 一方、世界で最も信者の多いイスラム教は、唯一神「アッラー」の教え「コーラン」を信じる11億人の生活を支える宗教(御幣を覚悟でいえば思想)になっています。このイスラム教は、偶像崇拝を徹底的に嫌うので、キリスト教や仏教とは相容れないことはご存知のとおりです。また神への奉仕を大切にしているので、富めるものは学校そのものを寄付するとか、貧しいものへの救済など社会の互助システムには見るべきものが多くあります。

 日本は、明治維新によって西洋文明をドンドン取り入れ、その後、第2次世界大戦で負けて民主主義を学んで今日あります。また古代日本は、ありとあらゆるところに神を信じる多神教なので、海外からのいかなる宗教にも思想にも寛大です。
 このような歴史的風土の日本からだけ世界を見ていると、見間違えることも多くあるのです。いい悪いを短絡的に結論付ける前に、まずは「あるがままを認める」ことから、すべてのスタートを切ることが必要でしょう。その後に、世界の人々が「異なった価値観を受容する」ことを学べば、いまよりは間違いなく世界は平和になると思うのですが・・・。

※先週のブログ「ターシャ・テューダーの世界」で、展覧会のホテルはグランドプリンスホテル新高輪で、24日まででした。それが私のブログでは、ホテル名をまちがえて、また25日に「ぜひ」と言われてもやっていない!などと、読者からお叱りを受けました。無責任お詫びします。

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