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2008年6月30日 (月)

信頼を失った企業に、再生の道はあるのか

04_3  ケビンコスナー主演の映画「アンタッチャブル」の中に、1930年代のアメリカの暗黒街を牛耳ったマフィアのボス、アル・カポネが、自らは観劇でオペラに涙している最中に、部下のヒットマンたちに次々と機関銃でバリバリとライバルたちを暗殺させるシーンが出てきます。芸術に涙する人間の崇高な魂が実は欺瞞であり、血で血を洗う人間の醜さこそがマフィアの真実であることを描いたところが、この映画の見所のひとつにもなっています。

 では、カポネはなぜ殺戮の最中に観劇をしていたかといえば、当然のことながら、それは公衆の面前に姿をさらして自らの潔白を証明する、いわゆる「アリバイづくり」であることはいうまでもありません。つまり罪を犯すには、用意周到な工作の上でするのが犯罪のプロの仕事です。

 ところが、これでもかこれでもかというほど続いている食品偽装の会社は、同じ犯罪行為でも「いざ」?という時の備えがまるでできていません。(備えができているのも変な話しではありますが・・・・)「ミートホープ」「船場吉兆」「丸明」「魚秀」と続いている消費者だましの醜い偽装には、架空会社をでっち上げた最も悪質な「魚秀」を除いて全て共通するところがあります。それは、「同属会社」「トップのワンマン」、そして「内部告発」から露見して、その挙句トップが記者会見で「従業員がやったことなので、自分は知らない」という呆れた答弁をシャアシャアとしたことです。

 犯罪は、必ずメリットを得る人間が首謀者という真実があります。食品の偽装をしてメリットを得るのが従業員なのか、経営者なのか、その目的から考えれば簡単にわかることです。しかも突然、従業員のせいにされて、「はい、わたしがやりました」という従業員は、よほど企業のロイヤリティが高く命を捨てる覚悟がなければ到底できることではありません。葉隠れの武士道精神を表す「士は己を知るもののために死す」という有名な言葉がありますが、尊敬に値しない上司に濡れ衣を着せられて自ら死を選ぶ人はいません。

 そもそも、いずれはバレてしまうはずのことなのに、なぜ、「私は知らない」というのか、です。おそらく、長い年月にわたり偽装を習慣化させる中で、「世の中は充分ごまかせる、ちょろいもの」という自らの詐欺行為を確信し学習し人格化してきたのだと思います。ですから、絶対に「ごまかせる」と本能的に反応して答弁にも現れてしまうのでしょう。

 では、正解はどうしたらよいのか。罪を犯したときの対処法を論じても意味がありませんが、まずは、当たり前のことですが非を認めることが何よりも肝心です。そして潔く身を引き、まったく新しい経営者が新しい経営で再出発することです。
 企業を人体にたとえれば、足を怪我すれば足の治療を、内臓を壊せば内臓の治療をします。企業も生き物ですから、全ての機能が健全の状態であることは難しいものです。ですからある担当者が問題を起せば業務指導という「内科的な治療」をしたり、指導レベルでことが解決しないと判断したら「人事異動や組織改革という手術」をしたりして、人体である企業組織全体を健康体に戻そうとするわけです。

 ですから、トップに問題があるときは、まさに「脳」に問題があるわけですから、トップを変えない限り、この人体の蘇生の道はありません。現代医学では人体の「脳」の入れ替えはできませんが、企業においてはトップの交代という形で可能です。ですから論理的には、企業は永続的な命を持っているのです。不祥事を起こしたにもかかわらず、その脳を速やかに入れ替えて成功したのが「白い恋人」の石屋製菓株式会社です。トップの入れ替えを速やかにやり、新しいスタートへの期待を得て、その結果、見事信頼を勝ち得る結果を出しました。
 この「脳の入れ替え」は、何も不祥事に限らず、経営不振の企業も同じこと。不振の企業は、要は「現在のトップの脳」が通用しなくなっているということです。ワンマン経営者は、この事実にしっかりと目を向け自らの進退出処を考えることが、企業のために最も優れた選択の道です。それが、ひいては社会のため従業員のために、最後の勇気ある決断であることを自らに言い聞かせる必要があります。

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